松井 佳一博士

85歳で没する直前まで、金魚研究に情熱を注ぎ続けた松井佳一博士。松井博士は、日本における金魚研究の牽引者であり、第一人者でもあるだけでなく、世界的にも、金魚研究者として名を知られています。ここで博士の簡単なプロフィールをご紹介しましょう。

松井博士プロフィール

松井博士は、明治24年2月20日、現在の山口県周南市平野に生まれました。その当時は、平野は瀬戸内海に面した小さな港町で、生家の裏の畑が、その港に接していたこともあり、幼少期から海や舟に親しんでおり、小さい頃の遊びと言えば、もっぱら海での水泳や魚釣り、潮干狩りなどでした。
 また、松井博士のお祖父さまやお父さまは動物の飼育を趣味としていたため、物心のつく頃から、犬や鳥、ウサギなどの様々な生物に囲まれて育ちました。生家の中庭には金魚を飼育していた池があったそうですし、お母さまの実家には錦鯉を飼育している広い池があり、この池換えの手伝いをするのも、松井博士の大好きなことでした。そのように、様々な動物と触れ合ったことが、後々の松井博士を作る基礎となったとも言えるでしょう。
 
 博士の生家は、所有する田畑の一部を耕作する傍ら、農具、鉄鋼、洋釘などの卸小売を営み、お祖父様の時代には3~4人の弟子を抱えていました。お父様が腰が悪かったので、お祖父さまは松井博士に家業を継がせるつもりだったため、中学への進学には賛成ではありませんでした。しかし、お母さまの強い薦めもあり、松井博士は隣町の県立徳山中学校へ進学しました。

 中学に入った松井博士が一番好きな学科は生物でした。これは、徳山中学の藤谷先生の影響が大きかったようです。藤谷先生は、村役場の収入役や助役を勤めながら、青年に科学も知識を涵養するために、随時私塾を開かれていました。明治41年には富田博物学会を設立されて、毎月例会を開いて青年を指導され、小学校でも講演会や科学に関する展覧会を開催されるなど、生物学の普及に熱心に力を注がれました。松井博士にとっては、まさに博物学の恩師であり、動植物の採集に近郊近海にたびたび同行し、様々な実践を行うと同時に、知識を深めていきました。
 さらに、藤谷先生のすすめで、動物学雑誌をはじめとして、植物学雑誌、博物学雑誌、理学誌、参考書類などをすべて購読し、生物学の研究に携わっていこうと決心されることとなるのです。
 生物学の研究に一生をかけようと決心された松井博士ですが、何を専門にしていこうか?と思われたとき、小さな頃から海に慣れ親しんでいたこともあり、「魚」についての興味がふつふつと湧いてきました。そのためには、水産学を極めることが近道であると、農商務省水産講習所養殖科(現東京海洋大学)を志望し、入学されます。
 入学されてからも、その頃の教科書のほとんどが英語の原書で、高度なものばかりであったため、教科書を理解するために大変な勉強を強いられたようですが、好きな道を選んだのだから、と懸命に努力されました。そのおかげで英語も得意となり、戦後、外国に出張したり、学界での外人学者との交流にも苦することがありませんでした。
 卒業論文には「スッポンの組織の研究」をしました。そして、主任教授であった水産増殖の権威、日暮先生より「外山先生の助手となって、魚の遺伝学と魚病を研究してはどうか」という進言があって、研究科に進学されます。その当時、東京深川の秋山吉五郎氏の養魚場に、東京帝国大学の実験室があり、蚕の遺伝研究で世界的に有名だった外山亀太郎先生が、金魚の遺伝についても研究されることになり、松井博士はその実験の手伝いをすることになりました。
 そのようにして、松井博士は大正3年夏、金魚の本格的飼育を始められ、最初の研究として、ランチュウの頭の肉瘤の発達を選びます。孵化後15日ごろから、10日ごとに頭の皮膚の組織切片の顕微鏡観察を続け、解明します。しかし、当時はまだ高潮や隅田川の出水を防ぐきることができず、そのような水害によって、秋山氏が手塩に掛けて育てた大事な金魚や、研究のための金魚たちの流失が、たびたびあったのだと言います。
 松井博士が遺伝学の研究に金魚を選んだのは、その頃すでに金魚には20数品種があり、それぞれの品種の産卵数が多かったことがあげられますが、反面、水中での観察であることや、親魚になるまで2~3年要すること、その間に水害や不注意で全滅してしまうことなどの欠点もありました。博士が研究に使用された金魚は200万尾以上でありますが、残念ながら水害や不注意などで殺してしまった金魚も少なくとも100万尾はいるのだそうです。
 松井博士が証明した「金魚の祖先はフナである」実験は、各種金魚を何代にもわたって仔を取り飼育していくと言う、実に長い年月のかかるものでした。そして、生まれる仔魚の中にフナと全く同じものが出現することを証明したのですが、フナからは金魚が出現しないことも同時に証明しました。これは、現在のフナはフナとして変化しており、金魚が出現した時のフナとは異なるからということなのです。
 大正6年に起こった大津波によって、秋山養魚場の金魚は壊滅的な被害を受け、実験室は閉鎖されることとなりました。しかし、その後も松井博士は嘱託として秋山養魚場で、金魚遺伝の研究を続けられます。その翌年には、外山博士が他界されてしまうのですが、松井博士はその研究を引き継がれました。大正9年からは、愛知県豊橋市に農林省水産講習所養魚試験場に移って研究を続けることとなり、金魚をはじめとし、鯉や鮎、うなぎなどの淡水魚と共に暮らす生活を17年間、続けました。
 昭和8年、それまでの研究成果の一部を、名古屋で開催された日本遺伝学会大会で発表し、そこで東大の三宅教授から今までの研究について、まとめて学位論文を出すように言われます。翌年、まとめた論文を東大に提出し、農業博士を授与されたのです。大学に直接関係がなく、水産講習所出身者で博士号を得たのは、松井博士が最初でした。
 松井博士は、金魚飼育をはじめるにあたり、金魚に関する資料として、江戸時代の錦絵や文献、陶磁器、彫刻など、手当たり次第に蒐集を始められます。蒐集された錦絵は250枚にもなりますし、中には学問的にも相当重要なものもあるようです。
 金魚の研究のみならず、鯉やメダカ、真珠の研究なども精力的に行いました。博士は生前、それらについて書かれた単行本17冊、論文106、報文62、随筆90など、多くの文書を発表しています。昭和50年秋、博士はすでに84歳になっていましたが、執筆の約束を1年前にして、常に気にしていた「人間と文化シリーズ」金魚の執筆を始められ、12月初旬には脱稿します。しかし、この無理がたたったのか、約束を果たした安堵感からか、体調を崩され、翌51年4月17日、85歳2ヶ月の生涯を閉じられました。
 博士が残した功績は、金魚の研究だけでなく、金魚に関するあらゆるジャンルのものを蒐集したことも、大変貴重なことだと評価されてもいいでしょう。