秋山 吉五郎氏

 日本における、金魚の新品種作出の父とも言えるであろう秋山吉五郎氏。氏の足跡は、現代の金魚飼育に、新品種作出に、多大な影響を与えました。まさに金魚偉人と言うにふさわしい人物です。ここで秋山吉五郎氏の簡単なプロフィールをご紹介しましょう。

金魚養殖を始めるまで

 秋山吉五郎氏は明治元年7月13日、現在の東京江東区砂町に生まれました。実は、吉五郎氏の生家は、服部さんと言って川魚の養殖を手広く行っていました。
吉五郎氏が生まれた当時、実父の五郎兵衛氏は、その2年ほど前にスッポンの養殖に着手したばかりであり、時代背景も徳川幕府が崩壊したばかりで、不安定な毎日でした。
そして明治12年に、実父・五郎兵衛氏が不慮の事故で亡くなるという、予想だにしない出来事がおこり、スッポンの養殖もなんとかできそうだと言う見通しが立ち、ウナギの養殖も軌道に乗り始めていたばかりではありましたが、後を継いだ兄・倉治郎氏一人の力では7人と言う弟妹たちを扶養する力もなく、吉五郎氏は船大工の徒弟として出されてしまいます。
ところが吉五郎氏は胃腸病にかかってしまい、服部家に戻り療養を余儀なくされたのです。数年の療養の甲斐あって、病は全快し、兄倉治郎氏の手伝いをされていましたが、縁あって秋山佐太郎氏のもとへ養子として、入られたのです。
年老いた両親のこと、ご自分の体のこともあり、兄倉治郎氏の助言もあって、吉五郎氏は金魚養殖をしようと決意されます。それは18歳の時のことでした。その頃のこの一帯は水田だったのですが、明治維新後、水門の開閉の管理が不充分となり、水害に何度も見舞われるようになり、水田としての機能を果たさなくなった沼や池に金魚を放流し、農業の片手間に金魚養殖をしている家が数軒あったといいます。金魚養殖を生業としている家は、当時は珍しかったようです。
明治22年には養魚場の拡張を図り、25年から新種創成に着手することになるのです。

新種創成

 養魚場の拡張を図るなど、金魚養殖が順調に伸びていた吉五郎氏は、ランチュウの発達した頭部の肉瘤と背ビレがないこと、リュウキンが丸い体型で尾ヒレが長いことに、非常に強い関心を示している外国人がいることを知り、では、両方の特徴を取り入れた金魚を作ってみよう、と考えらます。
 ランチュウとオランダシシガシラとを交配させ新種を作り出す、と言うと簡単に聞こえますが、それには長い年月がかかります。3年間かけてだいたい100尾の中から10尾が親魚候補として選ばれ、さらにその中から5尾が次の親魚・2代目となります。2代目の姿を見て、背中を整えたければランチュウを、尾を整えたければオランダシシガシラを掛け合わせ、明治33年には立派な新種「秋錦」が誕生したのです。が、原種の保存ができないうちにその後の何度かの水害で、秋錦は絶滅してしまい、現在は図鑑の中にその姿を見ることができる、幻の金魚となっています。

その後も続々と…

 吉五郎氏はその後も、錦鯉の秋翠、朱文金、キャリコ、金欄子と続々と新種を作出・発表されます。
 その実績を買われ、明治41年には東京帝国大学理学部の試験場としてスペースを提供します。しかし、こちらの経費は吉五郎氏持ちであったため、帝国大学教授で試験場委嘱の申し出をされた遺伝学者の石川千代松博士はその現状を気遣い、明治43年には水産講習所の委託試験場として、いくばくかの飼育料の補助が支給されるようになりました。
 この試験場には、大学から外山亀太郎博士が週に2~3回来て、研究されていました。研究成果はドイツの国際学会で発表される予定でしたが、第一次世界大戦が始まり、その機会を失い、その後、外山博士の逝去によって研究資料の所在も不明となり、その貴重な学術的成果は永遠に没してしまいました。
 大正6年には大水害が起こり、原種はすべて流失、大学の委託試験場としての機能も果たせなくなってしまい、試験場は閉鎖されます。翌7年にも水害に襲われ、吉五郎氏の金魚養殖は水害との闘いだったとも言えるでしょう。
 秋錦以外の朱文金やキャリコは、全国の養魚場で作られるようになっており、吉五郎氏のところの原種が流失しても、種の絶滅には至ることはありませんでしたが、秋錦だけはそこまで浸透していなかったため、吉五郎氏が持っていた秋錦が流失してしまったことで、絶滅の道を歩んでしまいました。
 吉五郎氏の新種創成には、様々な苦労があり、そして大変な労力と努力の積み重ねで、キャリコや朱文金が生まれたのかと思うと、非常に感慨深いものがありますね。