石川 亀吉氏

現在のランチュウ宗家、石川忠正氏の曽祖父である、初代石川亀吉氏、祖父である二代目石川亀吉氏のお二方は、ランチュウ飼育に情熱を傾け、ランチュウの飼育法や鑑賞法について確立された方と言っても過言ではありません。ここでお二人の簡単なプロフィールをご紹介しましょう。

ランチュウ飼育に命をかけて

 初代石川亀吉氏は、天保2年(1831年)に東京の芝浜松町に生まれました。石川家は、金魚商としてランチュウの育成に携わっていました。
 その当時、ランチュウはとても高価なものであり、とても庶民の手に届くものではなく、石川家は大名や旗本に依頼されて、ランチュウを飼育していました。明治維新を経て時代が変わると、初代亀吉氏は大名たちからランチュウを買い戻し、良いランチュウを作り上げ、育てることに心血を注ぎました。そして幻の横綱「花頂山」を育て上げるだけでなく、多くの良魚を養育し、その結果、現在のような、素晴らしいランチュウという品種が確立され、多くの愛好家を魅了してやまないのです。
 明治17年(1884年)10月11日、世話役・観魚連として石川方で、観魚会設立の準備を兼ねた会が開催され、金ちゅう競和出世鑑という番付を出しました。翌18年には10月8日に親魚だけの第1回の品評大会が開催され、10月11日には第2回の大会として、当歳魚だけの品評大会が開催され、第16回までは観魚連として、明治33年(1900年)の第17回大会からは、観魚会として開催されました。明治18年当時、初代亀吉氏は54歳、二代目亀吉氏はまだ14歳でしたが、以降もお二方とも亡くなるまで、ランチュウのため、観魚会の発展のために、人生を捧げたといっても過言ではありません。

金ちゅう競和出世鑑

 ここに第1回の番付をお見せしますが、中央に横綱と大きく書かれているのが、ランチュウの名魚・花頂山です。そのオーナーはその頃、ランチュウを支えた数多いごひいきの旦那衆の中で最も有力な後援者であった、中橋鋸町・喜谷氏の名前が書かれています。喜谷氏は、今の東京中央区京橋1丁目、中央通りと八重洲通りが交差するあたりにあった実母散本舗の主、喜谷市郎右衛門氏のことで、漢方薬を扱う大きな商店でした。
 荒木緩甫画伯が写生した花頂山の絵が、石川宗家に所蔵されていたのですが、本当に残念なことに焼失してしまい、どんな魚であったのかをうかがい知ることができなくなってしまいました。しかしながら、番付表は現在も多数残されており、長い歴史を感じることができます。

戦中戦後の混乱の中で

 二代目亀吉氏は、ランチュウの飼育方法を文書化され、ランチュウの観賞方法についても、わかりやすく解説をされ、広く一般の人々にもランチュウの魅力を広めることにも力を注がれました。
 亀吉氏は明治・大正・昭和と3つの時代を生き抜き、様々な混乱の中でも、ランチュウを守り続けることに尽力されました。その心意気は観魚会の会員の方たちにも深く浸透し、第二次世界大戦時には、会員たちが中心となり金魚を絶滅から守ろうと、ランチュウをはじめ17種ほどの金魚が新宿御苑の中に作られたタタキ池に集められ、保存されていました。
 戦火が激しくなると共に、金魚の保存も観魚会も中断されてしまいますが、昭和20年の東京大空襲の折には、亀吉氏、亀吉氏の息子である秀三郎氏は、家財道具には目もくれず、ただランチュウだけを持って逃げたと言います。そんな大変な苦労と、観魚会会員の方々の協力を得て、昭和23年には観魚会の品評大会は再開されることとなったのです。
 二代目亀吉氏は昭和42年、96歳で天寿をまっとうされますが、その3年後、昭和45年からは親魚と当歳魚の2つのランクに2歳魚の部門を加え、3部門で審査が行われるようになり、現在に至っています。