堀口金魚【金魚の歴史】

1 金魚の歴史

 金魚は日本の夏の風物詩でもあり、ほとんどの方が金魚すくいなどで貰った金魚を飼育した経験があるであろう、私たちにはなじみ深い観賞魚です。
 ご承知の方もいらっしゃるでしょうが、金魚の故郷は中国です。今から1700年ほど前、野生のフナの中から突然変異によって生まれた、体色の赤いヒブナがその祖先であると言われています。
 しかし、金魚誕生については、はっきりしたことはわからず謎が多いままとなっていますが、中国のいくつかの古い文献によると、晋の時代に中国南部地方の、とある湖で「火の如く赤い魚」が発見されたとあり、これが金魚誕生の始まりであるとされています。
 ちなみに、、晋は西暦265年に建国され、280年に長江(揚子江)下流以南の呉を併合して天下統一を果たしました。そして王朝は419年に滅ぼされるまで、3世紀中ごろから5世紀初めにかけて、150年余り続きました。
 さて話を戻しますが、金魚誕生は晋の時代とされているのですが、その後、金魚らしき魚の消息はぷっつりと途絶えてしまいます。再び文献に登場するのは、それから500年ほどたった北宋時代のこととなります。その頃の詩人が詠んだ歌や詩集に、杭州の西湖湖畔の仏教寺院に放生されていた魚の中に黄金に輝く魚が見られた、という描写が登場し、さらにその金魚を飼育する者がいたという記述も見ることができます。
 中国の人々の間では、自然現象や動植物すべてに魂が宿っていると信じられており、突然変異で生まれた金色の魚を神として崇め、神社仏閣の池などに放流する習慣があったといいます。その背景には仏教の「無用な殺生を禁じ、慈悲放生を提唱する」という思想があります。隋唐時代から宋時代、6世紀から13世紀ごろにかけて、支配者階級が仏教を強力に支持していたため、殺生の禁止、放生の提唱、薬としての生物の利用禁止などを命じたため、動物の放生が定着し、放生のための池が寺院などに多数作られたと言います。西湖は中国最初の放生池であり、ここにはナマズや鯉、金色の魚などが多数放たれ、それら様々な魚が西湖で半飼育されるようになり、徐々に人々の社会に、生活に近づいていきました。そのような歴史を持つ西湖は、金魚の故郷と言われています。
 金色の魚は福や富を招く魚として珍重され、宮廷で観賞されるようになっていきました。南宋初代の高宗は、杭州城内で金魚飼育を行うとともに、熱心に新種の作出に励んでいたと言います。次第に家臣たちにも金魚飼育は広まり、そのうちに金魚の飼育や販売をなりわいとする者がでてきたようです。
 13世紀ごろから、これまで池で飼育されていた金魚が、陶製の水鉢などでも飼育されるようになり、明代になると、水鉢飼育が一般にも普及しました。この頃には大規模飼育も可能となり、現代の金魚養殖同様に選別や淘汰が盛んに行われ、新種がどんどん作出されるようになりました。体色だけでなく、体型にも改良が加えられるようになり、品種が増加していったのもこの頃です。
 金魚飼育は一般庶民の間にも流行しはじめ、明の弘治年間・1485年~1505年あたりから、水鉢に金魚を飼うことを「盆魚」と言い、中国の風物詩になっていきました。清の後期、19世紀後半になると、飼育法も発達し手引書なども発行され、次々に新しい品種が出現していきました。
 現在でも中国では金魚の飼育は盛んに行われています。

2 日本への伝来

 さて、金魚の故郷は中国であるということは、充分にわかっていただけたと思いますが、では、日本へはいつごろ伝来し、飼育が盛んになっていったのでしょうか?
 日本で最初の金魚の飼育書と言われている「金魚養玩草(きんぎょそだてぐさ)」によると、「文亀2年1月20日、泉州左海の津に渡り」という記述があります。文亀2年は1502年のことであり、ちょうど今から510年前になりますが、その時、大阪の堺港に金魚は中国から渡ってきたというのです。
金魚養玩草は、1748年、寛延元年に泉州堺の安達善之氏によって刊行されたものです。安達氏は堺の住人であるということ以外は不詳とされているのですが、この本の内容から、安達氏は金魚飼育に勤しみ、経験を基づいてこの本を執筆したのではないかと推測されます。
なぜ、伝来から250年近く経って、はじめて飼育書が刊行されたのかということを考えてみますと、1500年ごろと言えば、日本は室町中期、戦乱の世の中であったと言えます。しかしそんな殺伐とした時代の中であったがゆえに、美への憧れは強まり、また日本特有の「わびさび」といった心の安らぎのようなもの、日本庭園のような景色を楽しむ空間、日本画や焼物など美しい美術工芸品が求められたとも考えられます。金魚もそのような憧れを抱かせる存在だったのではないでしょうか?しかしながら、金魚の養殖技術もなく、混乱期でもあったことから、金魚は数年後には姿を消してしまったようで、この時代には人々の間に広まることはなかったようです。
その後、江戸幕府が誕生した元和年間に再び金魚が中国から渡来し、大名や富豪など一部の特権階級の間で、富の象徴と言っても過言ではないほどの贅沢品であった金魚が広まり始め、養殖されるようになったのではないかと考えられています。井原西鶴著の「西鶴置き土産」の中に「大名の若子、金子(きんす)5~7両にて金魚を買い求め」という記述があり、相当の高価な贅沢品であったことがわかります。
金魚が一般庶民の間にも広まり始めたのは江戸中期以降のこと、幕府が安定し、太平の世が訪れ、様々な文化が花開き、町にも活気があふれていきます。その一つが金魚文化であったのです。
なぜ高価な金魚が庶民の間にも広まっていったのでしょう?そこには大平の世になったがゆえに、職にあぶれた武士たちが生活が立ち行かなくなり、傘張りや楊枝作りなど様々な副業を始めたことが背景にあると考えられます。副業の一つに金魚養殖があったのです。奈良県の大和郡山地方では、藩主自らが藩士たちに積極的に金魚養殖を勧めたといい、この地では現在も金魚養殖が盛んであり、日本有数の金魚生産地の一つとなっているのです。
また、その頃オランダなどからガラス製造技術が輸入され、吹きガラスが大流行しました。その吹きガラスを金魚鉢として利用し、上見だけでなく横見や様々な角度から金魚を眺めることができるようになったことから、当時のマスコミの役割を担っていた、浮世絵や浮世草子、川柳などで金魚が題材として盛んに取り上げられるようになり、金魚の一大ブームが沸き起こったのです。

3 金魚養殖あれこれ

 金魚は私たちの身近にある生き物ですが、どのようにして皆さんのお宅で飼われるようになるか、ご存知でしょうか?簡単に言ってしまえば、私のような養殖業者は、大きな池で金魚を何千、何万尾と飼育し、親魚を選んで卵を産ませ、孵化させて、ある程度の大きさになるまでに選別・淘汰を繰り返し、セリを経て問屋から小売店へと売られていき、そして小売店を訪れたみなさんの目に留まり、購入していただいて、みなさんの家族の一員となるわけです。
 問屋や小売店の中には、自分で繁殖をさせた金魚を取り扱っている場合もありますし、いわゆるブリーダーと呼ばれる方々もたくさんいらっしゃいます。
 金魚は誰にでも手軽に飼育することができますし、上手に飼育すると10年以上長生きするものもいます。また、家庭だけでなく、学校の飼育生物としても私たちの身近にいる存在だと言えるでしょう。
 さて、現在、日本でコンスタントに生産されている金魚はだいたい30種類と言われています。その昔、中国から渡ってきた金魚を基に、長い時間をかけて、日本人が美しさにこだわって改良し、作り上げてきたわけですが、人為的に作られたものですから、一つ間違えば簡単に絶滅してしまうこともあり得ます。
 犬や猫などでも、色模様がまったく親と同じというのはめったに見られるものではありませんが、体型やしっぽの形、毛の長さなどの形態的特徴は、親に似ているのは当たり前のことです。しかし、金魚はそうはいきません。色模様は勿論のこと、それだけではなく体型やヒレの形状や長さ、有無などが親と同じものばかりが生まれるとは限りません。ある程度の割合で、まったく違ったものが生まれてきてしまいます。
 この違ったものから新品種が生まれていくことにもなるので、これはこれで金魚を作る時の面白みでもあるわけですが、ちょっと選別を誤れば、親と同じものがいなくなってしまうこともあり、どんなときでも手を抜くことができないのが、大変なところでもあります。ちょっとしたことで、先祖返りを起してしまうのです。極端な話、フナに戻ってしまうこともあるのです。普通の魚たちと同じ一枚の尾をフナ尾と言っていますが、フナ尾の金魚は一回の産卵の中で、ある程度生まれてきてしまうものなのです。
 品種を維持していくためには、徹底的に選別すること、淘汰することが大切で、これを怠ったがために、この仔たちが親になって産卵した時に、ダメな金魚ばかりが生まれてしまう、ということもあり得るのです。
 親にする魚を選ぶのにも慎重を期します。親魚をどのようなものにするかによって、ある程度、結果を期待することはできます。もちろん、先に述べたとおり、思った通りの結果が必ず得られるとは限らないのですが、先人たちからの教えや、自分の長い経験から、こんな金魚が生まれてくるのではないか?という予想を立てることは可能であり、また、こんな金魚を親魚にしたら、ダメな金魚しか生まれないかもしれない。といった予想を立てることも可能です。
 さらに、親同士の組み合わせも重要で、オスの親にするのは、こういう特徴を持った魚が良い、メスの親にするのは、こんな特徴を持った魚が良い。ということも、先人たちが経験から学んだものを、私たちに伝えてくれています。
 どのような職業でもそうかもしれませんが、ことに金魚養殖においては、そういう飼育上の様々なノウハウを後輩たちに伝えていくことも、私たち現役世代の大変重要な仕事であると言ってもいいでしょう。

4 現状

 さて、江戸川区の金魚を取り巻く環境は、どんどん悪化していると言っても過言ではないかもしれません。
 東京での金魚養殖は、先ほどお話しした通り、江戸時代中期ごろから盛んに行われていたとされています。江戸の町に金魚の一大ブームが起こり、武士の副業や農業の傍らに金魚養殖がおこなわれており、東京における金魚養殖の歴史は、200年以上あると言えるのです。
 明治中ごろには、政策として外貨獲得のための手段として、金魚養殖&輸出が論じられたこともあり、それを受けて私の曾祖父、堀口礒吉が金魚養殖を始めたと聞いています。
 江戸川へ越してきたのは、  年ごろのこと、当時はまだ都市化の波はここまで広がっていなかったというのが、一番の理由だと思われます。
 明治時代には、信じられないかもしれませんが、現在は大きなビルが立ち並び、近代的な街の象徴ともいえる六本木ヒルズのあたりにも、金魚養殖池がありました。また、現在は工場や団地が立ち並んでいる、江東区の砂町あたりや亀戸、両国なども金魚養殖業者がたくさんいたところでもありました。
 日本における新金魚作出の父ともいえる、秋山吉五郎氏が養殖場を構えていたのも、江東区の千田町あたりで、今では開発が進み、当時の面影を見ることはほとんどできません。
 開発の波の押されて、金魚養殖業者は移転を余儀なくされ、さらに土地高騰化のあおりを受けて、固定資産税が払えない、相続税が払えない、といった問題に直面した方たちの中には、養殖業を廃業した方々もたくさんいます。
 農業と違い、金魚養殖業には土地に係る税金面での優遇というものがほとんどないのが現状です。そんなことから、江戸川区内に多数あった養殖業者も、現在は私、堀口養魚場と橘川養魚場さんの2か所となってしまいました。寂しい限りです。
 私のところも以前は江戸川区内に5000坪ほどの養魚池がありました。しかし、開発の波に押されて、現在は1200坪ほどまでに減ってしまいました。その分、埼玉県の大利根に分場として1200坪ほどの養魚池を持ち、2つの養魚池で金魚を作っていますが、現状はシビアなものであることには変わりありません。
 先般、日本人の金魚に対する考え方も変わってきたように思います。伝統的な美を重んじるというよりも、個性を好む傾向が強くなってきたように感じ、昔ながらの伝統的な生産方法で生み出された美しい和金や琉金などよりも、中国からの変わった形の金魚や、いわゆる一点ものとされる変わり金魚が好まれているように思えてなりません。
 中国も、金魚の生産がとても盛んですが、中国では伝統的な形や色を重んじるというよりも、変わった形を好む傾向があり、次々とヒレの形がちょっと違う、体型がちょっと違う、という金魚が続々と生産されています。
 日本よりも土地が広大で、地代も安く、人件費もそれほど高くないわけですから、日本よりも大量に安価で金魚を生産することができ、そんな中国からの金魚がどんどん日本の市場に入ってきて、日本産の金魚は押されているのかもしれません。また、変わった金魚を作る方が売れる、ということで、今までの普通に流通していた金魚だけでなく、変わった金魚をもどんどん作り出している生産者がいることも事実であり、このままでは、日本で長い年月をかけて作り出されてきた金魚たちが、いつしか変わり金魚にその地位をとられ、変わり金魚が日本の金魚になってしまう日が来てしまうかもしれないと、私は危惧しているのです。
 金魚の美しさは、体型と色彩、各ヒレの長さ、体とヒレのバランス、泳ぐ姿、すべてがそろっていないと完璧だとは言えません。そうしたものを長い時間をかけて先人たちが作り上げてきてくれたわけです。
 金魚は簡単に先祖返りしてしまう生き物です。一度崩れてしまった品種の特徴を、元に戻すのには、大変な時間と手間がかかります。さらに、そのほかの動物の世界でもそうですが、絶滅してしまったものを復元することは、非常に難しく、完璧に同じものを生み出すことはほとんど不可能とも言えます。
 そういった意味でも、現在ある品種を守っていくことは、日本の金魚文化を守る上でも大変重要なことであり、私たち生産者がきちんとした金魚を生産していくことは勿論のこと、一般の方々にもこれが日本の金魚なのだ!という金魚を見極め、家族の一員として飼育していただくことをお願いしたいと強く願っています。
 500年以上続いてきた金魚文化を、私たちの未来へ伝えていくこと、それは私たち生産者の責任でもあり、みなさんと手に手を取って、後世に残していかねばならないと考えています。皆さんのご協力、ご賛同を得られるよう、良い金魚を作り続けていくことが、私が今やらねばならないことです。
 丈夫で元気、そして美しい金魚を、皆様の手元に届けるため、これからも私は金魚を一生懸命作っていきます!